坂本龍馬の生涯

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【天保六年、龍馬誕生】

龍馬は天保6年11月15日に、高知城下本丁筋で坂本家の二男として誕生しました。幼少の頃の龍馬は、泣き虫で、寝小便もなかなか直らなかったといわれていますが、剣術を習い始めてからは見違えるように立派になり、心身ともに鍛えられていったのでした。


龍馬の母・幸はお産の前に、龍が胎内に入る夢を見たという。龍馬の名前はこの逸話に由来しているとか。また、龍馬の背中には馬のたてがみに似た毛が生えていたともいわれている。


【嘉永六年、黒船来航】

嘉永6年、龍馬は剣術修行のために江戸に旅立ちました。龍馬が入門したのは千葉定吉の道場。龍馬にとって、はじめての江戸でした。


そして、ちょうどこの年の6月、太平の眠りを覚ます大事件が起こったのです。アメリカより米国海軍東インド艦隊提督ペリーが黒船を率いて浦賀に来航したのでした。江戸中を震撼させたこの事件に、幕府は各藩に江戸湾の警備を命じました。江戸にいた龍馬ももちろん動員され、その任務に就いたのでした。


この時、龍馬は父に「異人の首を打ち取って持ち帰ります」と書き送っていた。開明派の龍馬もこの頃は、このように勇ましい攘夷思想でした。龍馬だけではなく、この当時の多くの若者は、同じような気持ちを抱いていたのだ。

【文久二年、勝海舟との出会い】

脱藩した龍馬は江戸で思いがけず生涯の師匠に出会います。勝海舟です。海舟は龍馬に海外情勢を説き、「今、早急に必要なのは攘夷ではなく、海軍を強力にすることだ」と論説します。これに感化された龍馬はその場で海舟に弟子入りしたのでした。
弟子となった龍馬は海舟の提案する「神戸海軍操練所」の設立に奔走するのでした。


小説や映画でよく見られる名場面。龍馬は海舟を殺しに来たのだが、逆に説得させられて弟子入りするというシーンだ。

これは後に勝海舟が「氷川清話」にて、「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、おちついて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」と語ったことに由来している。

大風呂敷といわれる海舟の語るこの逸話、真偽のほどは定かでないが、両英雄の柔軟性を示す面白い逸話の一つ。


【慶応元年、西郷隆盛との出会い】

苦労の末、ようやく海軍操練所は設立されました。しかし、ここで思わぬ事態に。海舟の突然の失脚により、操練所はわずか1年ほどで閉鎖されてしまったのでした。


希望の光の海舟を失った龍馬でしたが、ここに新しい出会いがありました。以前に海舟に紹介された薩摩の西郷隆盛です。

海舟は龍馬をはじめ操練所の仲間らの行く末を案じて、薩摩に彼らの庇護を頼んでいたのでした。以後、龍馬たちは薩摩の庇護を受けることとなったのです。


龍馬が西郷を釣り鐘に例えて評した言葉。「掴みどころのない馬鹿のように見える。しかも底の知れない大馬鹿で、釣り鐘に例えると、大きく打てば大きく鳴るし、小さく叩けば小さく鳴る。残念なるは、これを突く撞木が小さかった」と龍馬らしいユニークな表現で西郷を評している。これを聞いた海舟も「評される人も評される人、評する人も評する人」と感心した。

【慶応元年、亀山社中】

薩摩の庇護を受けた龍馬は、行動をともにしていた操練所の仲間達と長崎の亀山の地に「亀山社中」を設立しました。

「亀山社中」とは海運業による貿易商社でありながら、同時に海軍技術を習得するという海軍要素を兼ね備えた結社。薩摩の援助もあり、操練所で学んだ海軍技術を生かした結社「亀山社中」は結成されたのでした。


以前に龍馬が姉の乙女に送った手紙の一節に「日本を今一度、洗濯いたしたく申し候」というものがある。龍馬の手紙にはこのような魅力的な表現がたくさん見られ、この一節も龍馬の名言としてよく知られている。まさに龍馬はこれより日本を洗濯せんがために奔走するのであった。

【慶応二年、薩長同盟】

龍馬の「亀山社中」には実はもうひとつ目的がありました。それは当時、対立していた二大雄藩、薩摩藩と長州藩に同盟を結ばせることでした。

犬猿の仲であった両藩を龍馬ら「亀山社中」は武器の購入斡旋などで近づけてゆき、そしてついに薩長同盟の締結を成功させたのでした。これによって幕府に対抗できうる巨大勢力が誕生したのでした。


長州の桂小五郎は龍馬に薩長同盟の内容を記した手紙を送り、それに証人として裏書きをする事を求めた。これに龍馬は「毛も相違これなく候」と裏書きしている。


これには桂の同盟に対する慎重さがうかがい知れると同時に、一介の脱藩浪人の龍馬がどれほど、信頼されていたかが見えてくる逸話だ。

【慶応二年、寺田屋にて襲撃】

薩長同盟を成功させたばかりの龍馬は、同月の夜、京都の寺田屋にて幕府の捕方に包囲された。この危機を救ったのが寺田屋の「おりょう」です。

おりょうはこの時入浴中で、偶然、浴室から外の異変に気付くことができたのです。おりょうは裸のまま駆け出し、龍馬に報告。何とか九死に一生をえたのでした。

この事件をきっかけに龍馬はおりょうと結婚し、西郷の仲介もあり鹿児島へ日本初の新婚旅行に出かけるなどして、ひとときの休息を過ごしたのでした。


龍馬は姉に手紙でおりょうの事を「まことにおもしろき女」と紹介している。おりょうに対する愛情がうかがえる龍馬らしい表現だが、龍馬とおりょうの結婚生活はわずか2年にも満たなかった。

【慶応三年、海援隊】

同盟締結によって一躍、躍り出た薩摩と長州に対して、一歩遅れたのが龍馬の故郷の土佐でした。土佐は何とかこの事態に追いつこうと、ここで脱藩した龍馬を頼ったのでした。土佐藩上士の後藤象二郎らと面会した龍馬は、亀山社中を土佐藩付属の「海援隊」として改編したのでした。


これも龍馬の名言の一つ。龍馬が草案した大政奉還後の新政府の組閣案に、龍馬は自分の名前を入れなかった。維新に大貢献した龍馬であるが、自ら「役人は性に合わない」と言って辞退したのだ。

驚いた西郷の「では今後は何をするのか?」の問いに答えたのが、このセリフ「世界の海援隊でもやらんかな」だ。大きな偉業を成し遂げながらも、地位に固執しない龍馬。これも龍馬の大きな魅力の一つであろう。

【慶応三年、大政奉還】

一大勢力となったに薩長が、武力討幕を狙って、その準備を着々と進めている中、龍馬は、別のことを考えていました。幕府と薩長が戦争をはじめれば、その隙に外国諸国が侵略してくるのではないかという危機があったのです。

そこで考えついたのが「大政奉還」。政権を朝廷に返上することで、平和的に革命を行おうとしたのでした。
薩長に遅れをとっていた土佐藩は龍馬からこの案を聞き、これこそ名案だとただちに幕府に大政奉還を進言しました。そしてついに将軍慶喜は大政奉還を表明したのでした。


「よくも断じ給へるものかな」大政奉還成立の報告を後藤からの手紙で読んだ龍馬は、目に涙をためながら、将軍の英断に感激したという。こういった幕府側であろうと素直に評価する実直な姿も、龍馬の魅力の一つだろう。

【慶応三年、龍馬暗殺される】

大政奉還がなされ、いよいよ新時代がはじまろうとしていた。そんな矢先の11月15日、龍馬は同志の中岡慎太郎と共に、京都の「近江屋」にて暗殺された。犯人は未だ不明。この日はくしくも龍馬33歳の誕生日であった。


龍馬が外の物音に対して叫んだ言葉。「ほたえな!」とは土佐弁で「騒ぐな」の意味で、龍馬が、店の者がふざけて騒いでいるのだと思ったこの音は、実は龍馬の下僕が刺客に斬り殺された際の音であったのだ。
刺客らは、この「ほたえな!」の声の部屋に向かって一斉に襲いかかったのだった。
 


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