坂本龍馬と関連人物

坂本龍馬と交流があった人物

坂本龍馬と交流があった人物を紹介します。
主に幕末の志士たちが中心となりますが、いずれも明治維新前後、時代に大きな影響を残した面々です。

中岡慎太郎  龍馬と奔走。薩・長・土の軍事同盟を成立させた維新の立役者。
武市半平太(瑞山)  土佐勤王党の盟主。徹して武士道を貫く、人望厚い高潔な人物。
勝海舟  江戸城無血開城の立役者。ざっくばらんで闊達な人柄。
西郷隆盛  大久保利通、桂小五郎とともに維新の三傑と呼ばれます。
谷干城  龍馬を強く尊敬。戊辰戦争、西南の役で活躍した気骨ある人物。
後藤象二郎  坂本龍馬の船中八策に基づき、裏舞台で大政奉還に貢献。
岩崎弥太郎  三菱財閥の創始者。龍馬の海援隊では経理を担当していました。


中岡慎太郎(なかおかしんたろう)

土佐国安芸郡北川郷の大庄屋の長男として生まれた中岡慎太郎は、武市瑞山(半平太)の道場に入門し、文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、志士活動を展開し始めます。
中岡慎太郎正義感が強く、大庄屋の家に生まれ、苦しんでいる農民のために、という思いが彼を強く動かしていたようです。
 
文久3年(1863年)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、土佐藩を脱藩し、同年9月、長州藩に亡命。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となります。
その後、中岡慎太郎は、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ、坂本龍馬らを巻き込んで、薩摩・長州・土佐・安芸など諸藩の志士の間を飛び回り、数々の軍事同盟を締結させていきます。
 
慶応3年7月には、長州の奇兵隊を参考に「陸援隊」を作り、白川土佐藩邸を本拠地と定めます。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著しています。
11月15日(旧暦)、京都近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負います。坂本龍馬は即死、あるいは翌日未明に息絶えたといわれますが、慎太郎は2日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城(のちに西南の役で熊本鎮台の司令官として西郷隆盛率いる薩摩軍と戦う)などに詳細に語り、11月17日に死去。享年29。
 
室戸岬に立つ中岡慎太郎の銅像は、桂浜にある坂本龍馬の銅像を向いているといわれています。
坂本龍馬の妻おりょうが残したことばによれば、中岡慎太郎は人間味があって、よく冗談を言う人物であったようです。
 
薩長連合、薩土密約、大政奉還等の軍事同盟は、坂本龍馬が中心に描かれたテレビドラマや小説が多いが、その発想や行動においては、真の立役者は中岡慎太郎であったという専門家の意見もあります。
 


武市半平太(たけちはんぺいた)

 武市半平太(瑞山)は、土佐藩郷士で、土佐勤王党の盟主。坂本龍馬とは遠縁にあたり、幼少より仲が良かったと言われます。
 
taketi2.jpg 嘉永2年(1849年)城下の新町で剣術道場を開き、土佐勤王党の母体となります。門下には中岡慎太郎、岡田以蔵等が名を連ねます。
 安政3年(1856年)江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となります。江戸では桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流がありました。
 文久2年(1862年)には、土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指令し、藩政の実権を掌握。藩主山内豊範を奉じて京に進出し、朝廷工作、数々の佐幕派暗殺に関与します。
 しかし、文久3年8月18日(1863年9月30日)中央政界の政変を境に、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握ります。土佐藩においても、前藩主で老公と呼ばれた、公武合体派の山内容堂の影響力が再び増し、土佐に帰国した武市半平太は、勤王派の同志たちとともに逮捕、投獄され、切腹を命じられます。
 享年36歳。未だ誰も為し得なかった三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せたと伝わっています。維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたといわれます。
 
 武市半平太(瑞山)は、言説さわやかで人格も高潔にして誠実、武士道仁義を重んじ、見た目は色白・美形・堂々たる体格(180cm前後)であったと伝えられています。
 武市が江戸剣術修行で、鏡心明智流の桃井道場へ通っていた頃の逸話。
 塾生の中に女や酒に走ってしまう者がいたので、武市は道場主の桃井に訴えて自ら模範を示し、至誠を持って塾生らを説いて回り、その結果、乱れた風紀は正され、塾生達の技量も上達し、桃井は武市を高く評価し感謝したといわれています。
 また、山内容堂が土佐勤王党の弾圧への動きを見せ始めていた時、武市は薩長和解調停案に関連して帰国をすることとなりますが、彼の身を案じた盟友の久坂玄瑞は、しきりに長州への亡命を勧めます。しかし武市は、その厚意に感謝の意を述べつつも、君臣の義理などを理由にこれを断ります。
 義理と恩を何よりも大事な物と考え、武士道仁義を徹底して貫き通す姿勢は彼の特筆すべき美点です。しかし、その時代においては決定的な弱点ともなり、自らの死を速める結果にもなったといえます。剣の腕も一流で、教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていました。
 『一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった』『人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材』といった彼を評する言葉が残されている事からも、高潔で有能な人物であったことがうかがえます。
 


勝海舟(かつかいしゅう)

坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあります。
また、西郷隆盛も大久保利通あての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いています。龍馬や西郷のような人物から高く評価されていたことがわかります。
 
勝海舟明治維新に大きな足跡を残した勝海舟。剣術は、直心影流の免許皆伝、また、禅も学んでいます。蘭学は、永井青崖に弟子入りし、この蘭学修行中に辞書「ドゥーフ・ハルマ」を一年かけ、二部筆写した有名な話があります。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得、象山の薦めもあり西洋兵学を修めて、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開きました。
 
また、1860年には福沢諭吉らとともに、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航しています。
 
神戸海軍操練所に入り、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指しますが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送ります。
勝が大阪で西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期(1864年9月11日)です。神戸港開港延期を西郷に、それに対する策を勝が語り、のちに西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っています。
 
1868年(慶応4年)、官軍の東征が始まり駿府城にまで迫ります。勝は徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まります。
勝は、西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行います。その結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命は戦火から救われました。
 
維新後も、勝は政府の要職を歴任。そして晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、1899年1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」であったといわれています。
 


西郷隆盛(さいごうたかもり)

坂本龍馬は、西郷隆盛を評してこんな言葉を残しています。
「西郷という男はどれだけ大きいかわからぬ。釣鐘の様な奴で、小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく響く。こちら次第に応ずる。得たいの知れない大人物さ」。
時代を大きく変えた薩長同盟に龍馬とともにかかわり、また、龍馬夫妻の仲人であるなど、坂本龍馬とは公私共に深く接点を持った人物です。
 
saigou.jpg西郷隆盛は、薩摩藩の下級武士でした。当代一の開明派大名であった、藩主・島津斉彬の目にとまり抜擢され、強い影響を受けます。
 
しかし、斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流されます。その後復帰しますが、新しい藩主の実父で、反の実権を握る島津久光と折り合わず、再び、沖永良部島に流罪、そして、家老小松帯刀や大久保利通の後押しで復帰します。
元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟の成立や王政復古に成功し、戊辰戦争を巧みに主導しました。勝海舟との降伏交渉に当たっては、江戸総攻撃を中止し、無血開城を果たします。
 
明治政府では、要職を歴任。しかし、朝鮮問題を契機として、明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教育に専念します。
佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に私学校生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃しました。
 
明治天皇は、西郷の死を聞いた際に「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らした、と言われます。
 


谷干城(たにたてき)

谷干城は同じ土佐藩の出身者である坂本龍馬を厚く尊敬した、気骨のある人物です。
 
1867年に坂本龍馬が暗殺されたとき、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったといいます。谷干城は、犯人は新選組と決めつけていて、流山で新撰組局長であった近藤勇を斬首獄門という惨刑に処したのも彼でした。かつての見廻組の一人であった今井信郎が「竜馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に非難したといわれます。
 
谷干城土佐藩士の家に生まれ、江戸で学び、帰国して藩校・致道館の教授であったころ、武市半平太と知り合い、攘夷運動に傾倒します。しかし、長崎にて、坂本竜馬・後藤象二郎と交わり、攘夷がまず不可能であることを思い、次第に倒幕へ傾いていきます。1867年には再び江戸に出て西郷隆盛と会い、薩土(薩摩藩と土佐藩)同盟を結んで討幕運動を目指し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では31歳で大軍監として指揮をとっています。
 
神風連の乱が起こった後、西郷軍を警戒した政府は、谷干城を熊本鎮台司令官に任命。1877年に起こった西南戦争では、52日間にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献しました。
 
その後に就いた軍の要職を辞任したのち、政治家に転身し、伊藤内閣の農務大臣をつとめますが、独自の政治的意見を貫き、辞任しています。
 


後藤象二郎(ごとうしょうじろう)

後藤象二郎は、明治時代に政治家として活躍していますが、彼の名前が覚えられているのは、やはり幕末に土佐藩や日本国政に関わる仕事をしたことによるところが大きいといえるようです。
 
日本人ではじめてルイ・ヴィトンの製品を愛用した事でも知られています(パリの本店で鞄を購入)。
 
後藤象二郎土佐藩に生まれ、将来共に活躍する板垣退助とは幼い頃からの知り合い。義理の叔父である吉田東洋の塾で板垣らと共に学びました。吉田東洋の進言もあり、土佐藩政で活躍しましたが、吉田が暗殺されたあとは、よりどころを失って失脚します。
 
その後ふたたび土佐藩にて役職につき、藩政の実権を握る前藩主・山内容堂の信任を得、大監察に昇進。公武合体派の武市半平太を党首とする土佐勤王党を解散に追い込み、武市を切腹させます。
 
慶応3年(1867年)、後藤は長崎にて、坂本龍馬との会談を行います。後藤から見れば龍馬は、師であり叔父である吉田東洋の敵、龍馬から見れば後藤は武市端山の敵ですが、両者とも過去の因縁を忘れ、手を握ります。
 
土佐に帰国した後藤は、坂本龍馬が最初に提案したと言われている船中八策(大政奉還論などを内容とする)に基づき、前藩主・容堂に対し、将軍・徳川慶喜に大政奉還させるよう進言します。この進言の後に、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのも後藤の働きによると言われています。
 
明治時代は、新政府に参加し参議、参与などに就任。しかし征韓論争に敗れて、板垣退助・西郷隆盛らと共に下野します。その後、政治活動を行いつつ、再び政府に協力、大臣職も歴任。
 
また、実業家としては、長崎県の高島炭鉱を約55万円で払い下げを受けて蓬莱社を設立しますが、放漫な経営のため破綻。結果、岩崎弥太郎に売却しています。
 


岩崎弥太郎(いわさきやたろう)

岩崎弥太郎は、三菱財閥の創業者。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物です。
 
iwasaki.png岩崎弥太郎は土佐国の浪人の子として生まれ、幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められます。21歳の時、江戸へ遊学しますが、国もとの父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父親の免罪を訴えたことにより弥太郎も投獄され、村を追放されます。その後、吉田東洋の塾に入塾し、後藤象二郎らの知遇を得ます。
 
吉田東洋が藩の参政となると、土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事。吉田東洋暗殺の犯人を追って大坂へ赴きますが、京都・大阪の尊王攘夷派が勢いを増し、犯人の捕縛が困難であったため、任務を放棄し無断帰国、長崎での藩費浪費の責任も問われ、職を辞します。慶応3年(1867年)、後藤象二郎により藩の商務組織・土佐商会主任、長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事。坂本龍馬が脱藩の罪を許され海援隊が土佐藩の外郭機関となると、藩命により隊の経理を担当しました。
 
明治に入って、海運業に従事し、三菱商会を設立。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせて三菱のマークを作っています。
 


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