勝海舟(かつかいしゅう)
坂本龍馬の文久3年の姉(乙女)宛ての手紙には「今にては日ノ本第一の人物勝麟太郎という人に弟子になり」とあります。
また、西郷隆盛も大久保利通あての手紙で「勝氏へ初めて面会し候ところ実に驚き入り候人物にて、どれだけ知略これあるやら知れぬ塩梅に見受け申し候」と書いています。龍馬や西郷のような人物から高く評価されていたことがわかります。
明治維新に大きな足跡を残した勝海舟。剣術は、直心影流の免許皆伝、また、禅も学んでいます。蘭学は、永井青崖に弟子入りし、この蘭学修行中に辞書「ドゥーフ・ハルマ」を一年かけ、二部筆写した有名な話があります。この時代に蘭学者佐久間象山の知遇を得、象山の薦めもあり西洋兵学を修めて、田町に私塾(蘭学と兵法学)を開きました。
また、1860年には福沢諭吉らとともに、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航しています。
神戸海軍操練所に入り、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指しますが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送ります。
勝が大阪で西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期(1864年9月11日)です。神戸港開港延期を西郷に、それに対する策を勝が語り、のちに西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っています。
1868年(慶応4年)、官軍の東征が始まり駿府城にまで迫ります。勝は徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まります。
勝は、西郷と会談、江戸城開城の手筈と徳川宗家の今後などについての交渉を行います。その結果、江戸城下での市街戦という事態は回避され、江戸の住民150万人の生命は戦火から救われました。
維新後も、勝は政府の要職を歴任。そして晩年は、ほとんどの時期を赤坂氷川の地で過ごし、1899年1月19日に脳溢血により意識不明となり、21日死去。最期に遺した言葉は「コレデオシマイ」であったといわれています。