谷干城(たにたてき)

谷干城は同じ土佐藩の出身者である坂本龍馬を厚く尊敬した、気骨のある人物です。
 
1867年に坂本龍馬が暗殺されたとき、瀕死の状態にあった中岡慎太郎から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったといいます。谷干城は、犯人は新選組と決めつけていて、流山で新撰組局長であった近藤勇を斬首獄門という惨刑に処したのも彼でした。かつての見廻組の一人であった今井信郎が「竜馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に非難したといわれます。
 
谷干城土佐藩士の家に生まれ、江戸で学び、帰国して藩校・致道館の教授であったころ、武市半平太と知り合い、攘夷運動に傾倒します。しかし、長崎にて、坂本竜馬・後藤象二郎と交わり、攘夷がまず不可能であることを思い、次第に倒幕へ傾いていきます。1867年には再び江戸に出て西郷隆盛と会い、薩土(薩摩藩と土佐藩)同盟を結んで討幕運動を目指し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)では31歳で大軍監として指揮をとっています。
 
神風連の乱が起こった後、西郷軍を警戒した政府は、谷干城を熊本鎮台司令官に任命。1877年に起こった西南戦争では、52日間にわたって西郷軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献しました。
 
その後に就いた軍の要職を辞任したのち、政治家に転身し、伊藤内閣の農務大臣をつとめますが、独自の政治的意見を貫き、辞任しています。