武市半平太(たけちはんぺいた)
武市半平太(瑞山)は、土佐藩郷士で、土佐勤王党の盟主。坂本龍馬とは遠縁にあたり、幼少より仲が良かったと言われます。
嘉永2年(1849年)城下の新町で剣術道場を開き、土佐勤王党の母体となります。門下には中岡慎太郎、岡田以蔵等が名を連ねます。
安政3年(1856年)江戸へ出て鏡心明智流の桃井春蔵に学び、塾頭となります。江戸では桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作など尊皇攘夷派の長州藩士とも交流がありました。
文久2年(1862年)には、土佐藩参政で開国・公武合体派の吉田東洋暗殺を指令し、藩政の実権を掌握。藩主山内豊範を奉じて京に進出し、朝廷工作、数々の佐幕派暗殺に関与します。
しかし、文久3年8月18日(1863年9月30日)中央政界の政変を境に、勤王派は急速に衰退し、代わって公武合体派が主導権を握ります。土佐藩においても、前藩主で老公と呼ばれた、公武合体派の山内容堂の影響力が再び増し、土佐に帰国した武市半平太は、勤王派の同志たちとともに逮捕、投獄され、切腹を命じられます。
享年36歳。未だ誰も為し得なかった三文字の切腹を成し遂げて、武士の気概を見せたと伝わっています。維新後、山内容堂は武市を殺してしまったことを何度も悔いていたといわれます。
武市半平太(瑞山)は、言説さわやかで人格も高潔にして誠実、武士道仁義を重んじ、見た目は色白・美形・堂々たる体格(180cm前後)であったと伝えられています。
武市が江戸剣術修行で、鏡心明智流の桃井道場へ通っていた頃の逸話。
塾生の中に女や酒に走ってしまう者がいたので、武市は道場主の桃井に訴えて自ら模範を示し、至誠を持って塾生らを説いて回り、その結果、乱れた風紀は正され、塾生達の技量も上達し、桃井は武市を高く評価し感謝したといわれています。
また、山内容堂が土佐勤王党の弾圧への動きを見せ始めていた時、武市は薩長和解調停案に関連して帰国をすることとなりますが、彼の身を案じた盟友の久坂玄瑞は、しきりに長州への亡命を勧めます。しかし武市は、その厚意に感謝の意を述べつつも、君臣の義理などを理由にこれを断ります。
義理と恩を何よりも大事な物と考え、武士道仁義を徹底して貫き通す姿勢は彼の特筆すべき美点です。しかし、その時代においては決定的な弱点ともなり、自らの死を速める結果にもなったといえます。剣の腕も一流で、教養もあり、指導者としての資質を十二分に持ち合わせていました。
『一枝の寒梅が春に先駆けて咲き香る趣があった』『人望は西郷、政治は大久保、木戸(桂)に匹敵する人材』といった彼を評する言葉が残されている事からも、高潔で有能な人物であったことがうかがえます。