中岡慎太郎(なかおかしんたろう)

土佐国安芸郡北川郷の大庄屋の長男として生まれた中岡慎太郎は、武市瑞山(半平太)の道場に入門し、文久元年(1861年)には武市が結成した土佐勤皇党に加盟して、志士活動を展開し始めます。
中岡慎太郎正義感が強く、大庄屋の家に生まれ、苦しんでいる農民のために、という思いが彼を強く動かしていたようです。
 
文久3年(1863年)、京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、土佐藩を脱藩し、同年9月、長州藩に亡命。以後、長州藩内で同じ境遇の脱藩志士たちのまとめ役となります。
その後、中岡慎太郎は、活動方針を単なる尊皇攘夷論から雄藩連合による武力倒幕論に発展させ、坂本龍馬らを巻き込んで、薩摩・長州・土佐・安芸など諸藩の志士の間を飛び回り、数々の軍事同盟を締結させていきます。
 
慶応3年7月には、長州の奇兵隊を参考に「陸援隊」を作り、白川土佐藩邸を本拠地と定めます。この頃、討幕と大攘夷を説いた『時勢論』を著しています。
11月15日(旧暦)、京都近江屋に坂本龍馬を訪問中、何者かに襲撃され、瀕死の重傷を負います。坂本龍馬は即死、あるいは翌日未明に息絶えたといわれますが、慎太郎は2日間生き延び、暗殺犯の襲撃の様子について谷干城(のちに西南の役で熊本鎮台の司令官として西郷隆盛率いる薩摩軍と戦う)などに詳細に語り、11月17日に死去。享年29。
 
室戸岬に立つ中岡慎太郎の銅像は、桂浜にある坂本龍馬の銅像を向いているといわれています。
坂本龍馬の妻おりょうが残したことばによれば、中岡慎太郎は人間味があって、よく冗談を言う人物であったようです。
 
薩長連合、薩土密約、大政奉還等の軍事同盟は、坂本龍馬が中心に描かれたテレビドラマや小説が多いが、その発想や行動においては、真の立役者は中岡慎太郎であったという専門家の意見もあります。